2009年06月14日
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昭和44年住宅地図と豊多摩郡誌によって明確になってきた玉川上水下高井戸村分水の開始点と終了点

Written By: 川俣 晶連絡先

 杉並区立中央図書館の杉並資料室に行ってきた成果のうち、下高井戸村分水関係の話題を簡単にまとめます。

玉川上水下高井戸村分水の分水点 §

 分水点がどこにあったのか、資料によっておおむね2つの解釈があります。

  1. 玉川上水が甲州街道に最も接近する屈曲点である
  2. 屈曲点よりも上流寄りである

 この他に航空写真を見て私が想定したのは「当初(昭和20年代)上流よりにあったが後(昭和30年代)に屈曲点に移動した」という状況です。

 これに対して、「全住宅案内地図帳 杉並区版 昭和44年度版」を見ると以下のように水路が描かれています。(個人名が入っている箇所はモザイク化しています)

全住宅地図帳 杉並区版 昭和44年度版

 これを見ると、赤ラインで示した迂回経路が存在することが分かります。これは自分を含め、過去に見た全てのこの分水の議論で想定されていない要素であるような気がします。

 これを踏まえて考えると以下のようにまとめられます。

  • この地図は水路を描くことを主題とはしていないので、本当に昭和44年の状況を反映していない可能性はあり得る。しかし、10年以上古い状況が更新されずに残っているとも考えにくい
  • 1965年(昭和40年)に玉川上水の使命は終わっていることから考えて、この住宅地図の状況がこの分水の最終状況と見て良さそうだ
  • 水の流れは始まりと終わりが無ければならない。無から水が流れ始めたり、無に水が消えていく状況は考えにくい (湧水や水を吸い込む地面はあり得るが)
  • 従って、玉川上水の分水点の少なくとも1つは青線の北西端に存在していることが推定される
  • それ以外の平行箇所に分水点があるか否かは明確ではないが、可能性としては低いだろう
  • 航空写真は、様々な事情から水路が隠されるケースがあるので、確定的な結論を出すには十分ではない (goo地図の昭和38年の航空写真でも、そう思って見れば上図の経路の水路があるように見える)
  • 「玉川上水の歴史と現況」東京都環境保全局(昭和60年3月31日発行)は上図の緑線の部分だけを確認し、ここが分水点であると誤認した可能性があり得る。同じ点を分水点としている他の資料も、同じ誤認を行っている可能性があり得る 2009/06/21追記。この解釈は誤りでした。詳しくは下高井戸分水・取水点誤認のメカニズムを再考察する・埋めた立てられたヒント?参照

玉川上水下高井戸村分水の終了点 §

 「東京府豊多摩郡誌 大正五年六月二十八日印 大正五年七月一日発」1005ページより

『玉川上水支流』

下高井戸地内に於て玉川上水より分水せる一支流は、其の流十町余り過ぎざれども、頗る灌漑に便し、後神田上水の支流と合して、和田堀内村に入る。

 これは下高井戸村分水とは書いていませんが、明らかに下高井戸村分水についての記述です。この記述の決定的な価値は、「隣村の小川」のような曖昧な表記ではなく、はっきりと「神田上水の支流」と明示されていることです。つまり、下高井戸村分水が神田上水(神田川)に直接合流して「いない」ことが明示されています。

 従って、「別の時代には合流していた可能性はゼロではない」という保留を付けつつ、下高井戸村分水の向陽橋合流説はおそらく間違いであろうと結論づけられます。

まとめ §

  • 玉川上水下高井戸村分水の分水点は、屈曲部ではなくその上流部にあると考えて良さそうである
  • この点は、分水への通水開始から使命の終了まで、変化したとしてもそれほど大きなものではないと考えられる (少なくとも屈曲部に移動したことは無いだろう)
  • 玉川上水下高井戸村分水は神田川の支流に合流して終わり、神田川に直接流れ込んではいないと考えられる

 というわけで、全く別個の資料から、始まりと終わりについて、かなりすっきりしたまとめを導き出せました。

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